マリス侯が思わずそちらを見やると、一人の青年がこちらに向けて歩み寄って来るところだった。 そのいぶかしげな視線を気にするでもなく、青年はにこやかに笑いながら話し始める。「何と素晴らしいことではありませんか。本当に大司祭猊下の慈悲深さには、いつも頭が下がる思いです」 どこか芝居がかった口調に、大げさな仕草。 赤茶色の巻き毛に青緑色の瞳を持つその人は、他ならぬやんごとなき人物の血縁者であることを示している。 その姿を認めたマリス侯は反射的に浮かんだ忌々しげな表情を隠すようにわずかに頭を垂れ、やや嫌味と皮肉を込めた口調で言った。 「フリッツ公爵閣下……。こちらにいらしていたのですか? 一体何事でしょう、先程の御前議会ではお見かけしませんでしたが、火急のご要件でもございましたか?」 そう。 両者の前で脳天気とも言える笑みを浮かべるのは、貴族のみならず一部の市民からも父親譲りの暗愚と噂され、二代目愚昧公などと陰口をたたかれている皇帝の従兄、フリッツ公イディオットその人だった。 マリス侯から投げかけられた痛烈な皮肉と嫌味を、話をふられたと思ったのだろうか、公爵は目を輝かせ立て板に水の勢いで話し始める。 「実は先日宮殿の開かずの間から、始祖ロジュア・ルウツ大帝の肖像画が見つかったとうかがったものですから、ぜひとも拝見したいと思いまして。いや、今まであんなに素晴らしい作品は……と、失礼」 向けられてくるマリス侯とジョセからの困ったような視線に気付き、フリッツ公はようやく口をつぐむ。 そして、宰相に向き直ると再び満面の笑みを浮かべる。 何事かとわずかに身構える宰相に向かい、フリッツ公はちらとジョセを見やってからこう言った。 「これはもう反対する理由は無いでしょう。加えて信仰心に篤(あつ)いジョセ卿が聖地で祈って下されば、長らく続く両国の争いにこの上ない後押しとなりましょう」 違いますか宰相殿、と無邪気に笑うフリッツ公。 だが、話には筋が通っており反論する余地もない。 表情を隠すかのように咳払いを一つすると、宰相は努めて平板
皇国の実権を一手に握り、思い通りにならぬことは何一つないと周囲から目されていた宰相マリス侯は、このところ少し迷っていた。 いや、迷うと言うよりは悩んでいた。 彼を不穏な思いにさせていたのは、他ならぬルウツ皇帝のメアリである。 病弱ではあるものの極めて優秀で、物事を判断するには常に理性と論理が先に立つ少女、それが彼が初めてメアリに拝謁した時に抱いた印象だった。 考えるよりも先に行動を起こし、理論よりも感情が先に立つきらいのある妹姫のミレダよりも、理知的なメアリの方が一国を支える皇帝にふさわしい。 そう判断したからこそ、マリス侯はメアリに忠誠を誓うことを決め、結果メアリは皇帝に即位し、自身は現在の地位を手にしたのだ。 だが、宰相の予想に反してメアリはその内面に恐るべき秘密を孕んだ人間だったのである。 打てば響くような聡明さは、その恐ろしい本性を覆い隠す仮面に過ぎなかった。 その仮面の下には、幼い子どもが持つ独特の残酷さが巧妙に隠されていたのだ。 成長と共にそれは収まるどころか増大し、今では細い一本の糸で理性を保っているようにも見受けられた。 悪いことに、女帝の心に淀(よど)むどす黒い闇は、このところ更にその深さを増しているように宰相には思えた。 女帝の中で沸き上がる負の感情は、近いうち彼女自身を飲み込むやもしれん。 そんなことになれば、この国の先行きは危うい。 おぼろげながらにそう感じたのは、先の御前議会の時だった。 絶対的な司令官不在のため、まともに動けるかどうかも怪しいにもかかわらず、自らの私怨から蒼の隊の出兵をごり押しし、あまつさえ総大将に妹姫を指名するなどと……。 その時の様子を思い出して、宰相は深々とため息をつく。 言うまでもなく、皇帝には今のところ伴侶はおらず、当然その血を受け継ぐ者はいない。 先帝崩御の後、皇位を脅かすであろう人物に血の粛清が下った今、皇家に連なる血を持つ人物は、妹姫ミレダと、暗愚と噂される皇帝姉妹の従兄フリッツ公イディオットのみであるにも関わらず、だ。しかも、フリッツ公は臣籍であるため、継承権を有していない。 皇帝に万
ふと人の気配を感じて、大司祭カザリン=ナロード・マルケノフは教典のページをくる手を止めた。 顔を上げると、戸口に立つ人物と視線が合う。 穏やかな面差しで入るようにうながすが、来訪者は立ちつくしたまま動こうとしない。 一体、どうしたのだろう。 疑問に思いながらも、大司祭は常と変わらぬ静かな口調で語りかけた。 「どうしたの? お入りなさいな」 声に応じて長身を屈め一礼したのは他でもなく、ルウツ神官騎士団長のアンリ・ジョセだった。 しかし常とは異なり、今日は白銀の甲冑姿ではなく、神官の制服とも言える飾り気の無い質素な長衣をまとっていた。 柔らかく微笑む大司祭に対し、だがジョセは表情を崩すことなくわずかにうなずくと、後ろ手で扉を閉める。 なおも所在無げに戸口に立ち尽くすジョセに、大司祭は無言で座るよう促した。 再び一礼し腰をおろすなり深々とジョセは溜め息を吐き出す。 それからようやく彼は、重い口を開いた。 「……宮廷は、まさに伏魔殿ですね。ミレダ殿下が今までご無事でおられたことが、不思議なくらいです」 投げかけられた言葉に、大司祭は悲しげに眉根を寄せる。 それは、予想通りの反応だったのだろう。 更に深い吐息を漏らすと、ジョセはおもむろに懐から一枚の紙を取り出して、卓の上に広げた。 「どこで誰が耳をそばだてているやもしれません。私が申し上げたいことは、すべてここに」 万一何者かに聞かれれば、我々の命も危うい、そうジョセは言外に告げていた。 理解した大司祭は、紙上に視線を落とす。 文字を追うその顔は、目に見えて青ざめていく。 それは他でもなく、先帝の崩御(ほうぎょ)にまつわる様々な噂だった。 先帝は病死ではなく、毒殺されたということ。 毒を盛った人物は先帝と深い関係がある人物であるということ。 その人物は、今至高の冠を戴いている存在であるということ。 大司祭の顔は、目に見えて青ざめていく。
騒動があった翌々日に、ロンドベルトが副官のヘラをはじめとするわずかな側近と共に、アレンタの主府へ向けて出立することが決まった。 つかの間の平和が訪れる、と言いたいところだったが、アルバートの心中は穏やかではなかった。 ロンドベルトが主府へおもむくということは、なにがしかの命令を携えて戻ってくるということを暗に示しており、その命令は十中八九出兵であることは明らかだったからだ。 そして何より、あのときのやり取りが頭の中にこびりついてはなれない。 ──お客人は、ルウツの大司祭猊下の養い子のようです── 墓地を前にしてのロンドベルトの言葉が、幾度となく脳裏によみがえる。 真実であれば、これまでの違和感にすべて説明がつく。 一方で、心のどこかで信じたくないという思いがある。 考えがまとまらず、アルバートは頭をかき回す。 その時だった。 「師団長殿、夜分に失礼いたします。よろしいですか?」 扉の外から聞こえてきた声が、アルバートを現実へと引き戻した。 どうぞと応じると開いた扉の向こうには、見知った顔の黒衣の兵士が立っていた。 「お休みのところ、申し訳ありません。本日宿直を拝命した者が、お客人の様子がおかしいと申しておりまして。来ていただけるとありがたいのですが」 「ご様子が?」 昼間の強引な尋問が、あの人に何やら影響をおよぼしたのだろうか。 不安を抱えつつも、アルバートは平服の上からマントを羽織ると、ランプを手に取り軍司令部の建物へと向かった。 ※ 暗い夜だった。 漆黒の闇に溶け込む黒衣の兵士を見失わないよう、細心の注意を払って進むことしばし。 ようやくたどり着いたその部屋の前で、アルバートは大きく息をつく。 扉の向こうからは、うめき声とも泣き声ともつかないものが、途切れ途切れに聞こえてきた。 「先刻は叫び声が。中をうかがったのですが、特に変わったことは何も」 そうですか、と見張りの兵にうなずいて見せてから、アルバ
眼前には、白い墓碑が無数に並んでいる。 その大部分が、中に眠る遺体のない空っぽの墓である。 一体何度同じことを繰り返せば、その馬鹿馬鹿しさに気づくのか。 そして、その片棒を自らも担いでいることに気づき、ロンドベルトは思わず苦笑を浮かべた。「ここにおられたのですか? 人の記憶に触れるのは禁忌だと何度も……」 背後から呆れと怒りが入り混じったような声が聞こえてきた。 やれやれとでも言うように、ロンドベルトはわずかに肩をすくめる。「あいにくと私は神官ではないので、その規範に従う義務はありません。違いますか? 師団長殿」 言いながら、ロンドベルトは振り向く。 果たしてそこには、怒りを隠しきれないアルバートが立っていた。「神官云々の問題ではありません。人道的に……」「戦場で無数の命を手にかけている私が、今更人道に背いても大したことはないでしょう。そうは思いませんか?」 二の句が継げず押し黙るアルバートに、ロンドベルトは皮肉めいた笑みを向ける。 真面目で実直なアルバートを言い負かすのは、ロンドベルトにとって造作もないことだった。「時に師団長殿、一つおたずねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」「自分に、ですか? お答えできるかどうか」 アルバートにしては、いつになく素っ気ない返答である。 が、ロンドベルトはまったく意に介する様子もない。「他でもない、かの御仁のことです。率直に見て、どう思われます?」 なぜロンドベルトはこんなことを聞くのだろう。 疑問に思いながらも不承不承アルバートは返答する。「神官としての資質は、十二分にお持ちです。……ですが、少々違和感があるのは否めません」 光を持たないはずの黒玻璃の瞳が、一瞬輝いたような気がした。 一体ど
扉の閉まる重い音。 そして静寂。 しばしヘラは戸口で立ち尽くしていたが、ややあっておずおずと寝台に歩み寄る。 アルバートは大丈夫とは言っていたが、相変わらずシエルは寝台に横たわったままで目を覚ます気配はない。 だが、その時唇がわずかに動いた。 「し……う……どうして……?」 「……アルトール殿?」 かすかな声に、ヘラは思わず耳をそばだてる。 「……どうして……助けたり……。……見捨てれば、こんなことには……」 「……アルトール殿? いかがなさいました?」 その声が届いたのだろうか。 不意に藍色の瞳が見開かれる。 驚いたヘラが飛びすさると同時にその腕に何かが当たり、ごとりという重い音をたてて床の上に落ちた。 あわててそれを拾い上げようとした彼女は、それが何であるかを理解して思わず表情をこわばらせる。 拾い上げたものは、鈍く銀色に光る短剣である。 何度も使われている物であろうことは、一応武人の端くれであるヘラには一目瞭然だった。 一方、いつの間にか起き上がりこちらを見つめてくる敵国の神官の顔には、どこか乾いた笑みが浮かんでいる。 「……父親の形見です。それでひと思いに突き殺してはくれませんか?」 ぞっとするようなその言葉に、けれどヘラは力無く頭を揺らす。 そして、わずかに鹿爪らしい表情を浮かべる。「……私は、トーループ将軍の副官です。主命以外に従うわけにはいきません」 震える手でヘラは短剣を握りしめる。 よく見ると剣の柄には、見慣れたエドナの紋章が刻まれていた。 「……アルトール殿、これは……? 貴方は……?」 ルウツの神官ではなかったのか。 けれど、やはり彼はその問いかけに答えようとはしなかった。 その代わりに、自嘲するような独白がその口からもれ聞こえてくる。 「無様だな、俺は。自分一人守ることも殺すこともできないで……」 丁重にその言葉